
世に棲む日々の5年間
1.はじめに
前回は、韓国の高速道路のPFI/CM事業のマネジャーの仕事について書いた。
おそらく、日本国内でPPP/PFIの“実”事業を実施した体験を持つものは、私1人であろう。しかし、この経歴は都合が悪い方々によって消された。
「都合が悪い人」というのは、大きくは政治的に、小さくは自分が第一人者と言たい人間。自分の手柄にしたい人である。
私はヒーローになるつもりは、さらさらない。面倒くさいだけである。しかし、どうも世の中はそうではないらしい。何かあるたびに、そういうことが起きる。手柄を求める人達が実に多い。よく言えば向上心なのだろうが、私には醜い手柄争いにしか見えない。
そして、この人達は物事の本質が見えない人達が多いので、結果的にミスリードしていく。先の能登半島地震でも起きている。関わるのならば、最後まで面倒を見れればよいのだが・・・。
だから世の中は良くならないし、進まない。
2.世に棲む日々(浪々生活)
韓国から帰国し、一応、C社に戻ると、針の筵の日々が続いた。どうも皆、気に食わないらしい。
建設コンサルタンツ協会で、韓国でのPFIの講演をして欲しいと依頼されて話をした。この時、「どういう話をすれば受け入れられるだろうか?」ということに一番気を遣った。しかし妙に小難しい質問ばかり来た。事業とは、そういう物ではない。そしてこれとは別に、私の帰国を待っていた一団が居た。かねてから親交のあった橋梁メーカーを中心とする橋梁建設協会とゼネコンのグループだ。
この方々と「橋梁PFI研究会」という研究会を作った。このとき集まったのは、橋梁メーカーとゼネコンで33社であった。コンサルはもちろん無し。
ある会合の時、P社の社長などが、「ああPFIで有名な植野さんですね」と話しかけてくると、同行していたC社の社長は「うちには他にPFIの大家が居まして・・・」と。まあ宣伝のつもりでしょうが、相手は「存じあげませんが」。
これはどういうことかというと、簡単な話。自己満足していても、周りが知らなければ何の意味もないということだ。それを強調すると、ピエロにしかならない。
そして、C社では希望退職の募集があった。ちょうど、給与は上がらない、ボーナスはゼロというのが数年間続いていた。何より、何もできない上層部が気に入らなかった。当然何も決めていなかったが、希望退職に応募した。そうすると社長に呼ばれ、「なんで辞めるんだ」というので、気に入らないことを羅列した。
社長に「とにかく、辞めさせてくれ」と言ったが、引き留められた。「とにかく辞める」と言うと、「希望退職ではなく自己都合だ」と言われたが、「それでもいいから、とにかく辞めさせてくれ」と言うことで退職した。
一度出した辞表を男が引っ込めはしない。
そんなこんなで退職はしたが先は無かった。この時、既に就職していた娘が「お父さんぐらい私が食わせてあげる」とお涙物の言葉を吐いた。すると面白いもので、某大手ゼネコン(K社)の関連企業のスカウト会社から連絡が来た。
「ある会社があなたを求めてます」というものであった。「その会社によるので教えろ」と言うと、「守秘義務で、とりあえず面接に行くまでは教えられない」とスカウト会社の担当者が言うので、「一度行っていただけると、当社の成果になるんですが」「では、協力する意味で行ってみましょう」
何事も経験だと思い、一度行ってみたが、どうも社長が固そうだった。それからコンサル数社等から話はあったが、どうもいまいち。俺を普通の技術者として使いたそうだったので、それは無理だと言い断った。まあ、食べるためには何かしなければいけないのだが・・・!
ここで政治の勉強もしてみようと考え、政経塾に入塾し、結果的には4年間通った。最初のうちは新鮮な感じでよかったのだが、だんだん馬鹿らしくなってきた。
同期は50人ほどだった。中には国会議員や県会議員、市会議員はもちろん、市長になった者もいるが、最初の選挙で選挙違反で捕まったやつもいる。
私はというと、終了した際に事務局から、「どこでもよいから県連の所属になるのが一番良い」と言われて、J党栃木県連に申請書類を出したが、いつまでたっても音沙汰無し。J党の本部の知人に調べてもらうと、「あんたのことを栃木県連では非常に警戒している。たぶん埒が明かない。どこか別のところで登録しろ。」というので、田中角栄さんを思い出し新潟県連に申し込むと、すんなり登録してもらえた。(現在は退会したが)
結局、ライバルになりそうなものは弾かれる。度量が狭い。政治家は潰し合いで、仲良しクラブでしかないのがよくわかった。そんな狭い視野の人達には期待できない。
すると、知人数人から「富山の検査会社」という話が来た。
非破壊検査は学びたい分野であった。富山に出向き社長と会長に会うと、「普段は富山には来ていただかなくて結構なので、東京の情報と時々来た時に若手の教育をしてもらえばよい」という。なかなか変わった注文だと思い、面白い会社だと思った。何よりもお二人の「誠実さ」がにじみ出ていた。
入社し、いろいろ勉強させてもらい、大宮に事務所も開設したが、採算が合わず閉じた。この頃、関東では非破壊検査会社が乱立し、過当競争になり、値崩れを起こしていた。何が問題か?結局、多くの企業は検査会社を下請けとしか考えていないようであった。
役所などは全く考えていない。打合せなどに同行しても、扱いはひどかった。特にコンサルが勘違いしている。これは、橋梁メーカーに居た時に裏設計で感じたものと同じであった。仕事に対する態度や下請け企業に対する扱いがおかしい。これは人間性であるとも感じた。アルスにはないことである。
しかし非破壊検査技術を習得したいと思って、いろいろ考えた。特に興味を持ったのがモニタリングシステムであった。
これを何とか売り込みたい。関東整備局の保全対策官と仲が良かったので話をし、これまた仲の良かった土木研究所の構造担当の上席研究官の処に行ったりした。ある時に連絡があり「関東整備局管内で心配な橋があるので、モニタリングをしてくれないか?」と言う。「ただし、格安でね。ちょうど2人で話した時にお互いに「そういえばこの間、植野が説明していったな」という話になった」という。
断る必要はないので直ぐ会社に話し、実施した。結構大規模なPC-BOXの曲線橋だった。一部が海に張り出していた。新設なのに、すでにクラックが入っていた。
初見では「曲率の関係だろう」思った。打合せで、載荷試験をメインにモニタリングすることになり、実施した。国土交通省関東整備局での実績である。
しかし、会社はこの価値が今でもよくわかっていないようだ。いきなり、地方の元請けもしたこともない業者が、県を飛ばして国の仕事を実施するということが・・・。下請けに慣れ親しんでいる故の恐ろしさでもある。
もう一社、外資系のコンサルの常務が「会社の役員会で会長からお叱りを受けた。「植野さんが会社を辞める情報を、お前達はなんで掴めもしないのか?今まで、あの会社に遠慮して声をかけなかったが・・・・」と激怒して、収拾がつかない」という。この人とは歳は離れているが「大推進化基礎技術懇話会」で御一緒している。「大推進化基礎技術懇話会」とは、本四に関わった国交省OBと民間企業の次期大規模プロジェクトへの技術継承的研究会で、なぜか私が事務局長を仰せつかっていた。年に4~5回の勉強会と現場視察会(実は旅行)をやっていて、非常に意気投合し懇意だった。
それで、そこの常務さんが「収拾がつかないので、助けると思って、一度わが社に来ていただき、会長を交えて話をしてくれませんか?私を助けると思ってお願いします」と言うので行った。私は「助けて」というのに弱い。なかなか面白い会長なので、何かの時に手伝うことにした。それで、暇なときに時々行っていた。
そんなこんなで実際に一つの企業に再就職したというのではなく、私からすれば複数の会社の面倒を見ていた。これが5年間続いたが、気楽で面白かった。この時代を私は「世に棲む時代」と言っている。竹中半兵衛や諸葛孔明が世に出るために、気ままな生活をしていた時代に重ねている。そして、この5年間で様々な構想を練ったわけである。
結構周りは見ているというのが感じられた。
この時代は私からは積極的に連絡するのを控えていた。ひどい連中は「植野は何か悪事を働き、海外逃亡した」と言っていたらしい。それまでの土木学会などの対外活動をだいぶ止めていたからである。
この5年間の間には東日本大震災があり、胆石で入院したり、娘の結婚などがあった。苦難の5年間ではあったが、まあ何とか凌いだ。
今回の一言(これを楽しみな方がいるようなので)
「人生には浮き沈みがある」が何とかなる。そのためには、「人脈は宝」。

インフラメンテナンス 総合アドバイザー
植野芳彦
PROFILE
東洋大学工学部卒。植野インフラマネジメントオフィス代表、一般社団法人国際建造物保全技術協会理事。
植野氏は、橋梁メーカーや建設コンサルタント、国土開発技術研究センターなどを経て「橋の専門家」として知られ、長年にわたって国内外で橋の建設及び維持管理に携わってこられました。現在でも国立研究開発法人 土木研究所 招聘研究員や国土交通省の各専門委員として活躍されています。
2021年4月より当社の技術顧問として、在籍しております。
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