植野が斬る!

霞が関の仕事術 国土開発技術研究センター

1.最初の1年

橋梁の世界の上流を目指していた。そしてコンサルの仕事に幻滅していた。
このあとは、基準を作る側に行きたいと考えていたところ、ある方から「国土センター(※1)」が募集している。ちょうど年齢的に合うからどうだ?」という話を聞き、試験を受けて採用となった。

2週間の研修後(スピード版の公務員研修)、研究第2部に配属された。
ここでまた、最初に建設省の自動設計システムのお守りを命ぜられた。どうも私には「システム」がついて回るらしい。この自動設計は、ボックスカルバート、擁壁、橋梁下部工(橋台・橋脚)、上部工(鋼H桁橋、鋼プレートガーダー、PCプレテン、ポステン)、杭基礎、ケーソン基礎、鋼管矢板基礎等の工種があり、そのすべての運用・管理を行った。
これに伴い、「建設省土木構造物標準設計」も担当した。これらは国費で開発改良され、大臣官房、土木研究所(当時)と一緒に行った。これらのプログラムは、現在市販されているほとんど全ての民間プログラムのお手本になっている。
上司にはKさんという、構造物で非常に著名な方がおり、2人でバディを組んだ。Kさんは重要な師匠である。

最初の1年目は、まず自分の技術力の無さがコンプレックスになりそうだった。35歳で一人前だと思っていたが、知識や、文章力、様々な土木分野の知識の無さに情けなくなった。
幅広い知識力が求められた。自分を1人前の技術者だと思っていたが、とんでもない。全くダメな奴だと思った。文章を書けば真っ赤になって返ってきた。

2.2年目以降

2年目からは構造物の基準全般も見ることになった。この時のKさんと私の会話は伝説になっている。
「おい、植野君。あれはどうなった?」
「はい、あれは、ああしときました。」
「ああわかった。」
周りにはさっぱりわからなかったようだ。時々、わきで聞いていた同僚が不思議そうに確認にくる。「あれでわかってるの?」「ああ、わかってるよ。あれでわからないと怒鳴られるからね。」
Kさんという方は非常に気が短く、いちいち聞き返したり細かい説明をすると怒鳴られた。Kさんは職員からも民間からも恐れられていた。しかし、その仕事ぶりは非常に参考になった。
基準類を見るという取り組みの真剣さは、おそらく民間にはわからないであろう。そんなあるとき、このKさんが突然、「あとはお前に任せる。」と言う。何があったのか詳細は謎であるが、「私じゃあまだ無理ですよ。」というと、「いや伝えるものは伝えた。」と言う。

九州整備局の採用で優秀だったために土木研究所に配属され、構造物の基準関係を中心に担当し建設省内では有名な方だった。
その後40歳から国土センターに転属していたわけだが、私とコンビを組んだときは50歳だった。52歳で田舎の別府に帰り、温泉付きの自宅で暮らしている。完成した自宅に来いと言うので自宅を訪ねると、玄関を入るなり「風呂に入れ」と言う。いきなり他人の家を訪ねて風呂に入るのもなんだなと思っていると、「まあいいから入れ」と言う。また入らないと怒られるので入ると、大きな浴槽に温泉かけ流し!「これが見せたかったのだな。」と感じた。あれから今でも毎年1度は大分に行き、“フグ”を食べながら、近況を報告する。
「あんたが九州人だったら、九州に呼ぶんだがな。」と、うれしい言葉をいただく。

Kさん退職後、私には構造物基準の全般が重くのしかかってきた。
そんな中、阪神淡路大震災が発生し、それからが地獄の日々となった。大震災発生後、道路局で「道路橋震災対策委員会」が立ち上がった。これを担当するように言われ、このとき36歳だったと思うが、こんな若造が全てを取り仕切ってよいのか?とも思ったが、ちょうど本省の補佐はこの年代であった。
昼間の委員会、夜の打ち合わせ。翌朝までの委員会宿題の検討結果の整理と報告と、まさに寝る間もない日々が続いた。役所間の調整、民間コンサルへの指示に始まり、橋建協や土工協への指示、会議、打合せが、地獄のように朝・昼・晩・深夜と続いた。
この時一緒に仕事をした方々とは、よく「あのころは、1日に4回会ってましたね。」と話す。主なコンサルだけでも10社ほど使ったが、ある日、建設コンサルタント協会の代表が金が合わないと言ってきた。連日連夜の徹夜や、弁護士からの損害賠償の問い合わせ等で気が立っていたので、「国家存亡の緊急時に金の話か?土工協や橋建協は、黙って協力している。情けない。やることやってから来い。」と、元上司を怒鳴りつけた。

なんと、実質2か月ほどで「復旧仕様」の完成。約1年数か月後に示方書改訂(H8道示)にこぎつける。まさに不眠不休の1年間だった。
このとき大げさではなく「死」を覚悟した。よく「二次被害者」だったとみんな言っている。後で聞くと、女房は帰宅時間や帰ってきた日等、詳しく残していたようだ。いざとなったら労災認定してもらうつもりだったようで、女性はしっかりしている。 

しかし、意外と他の職員は皆逃げていた。
この時、あてになるのは自分だけだと思った。他人が信じられなくなったりもした。大体こういう時にほとんど何もしなかった連中が、後になって「あの時に○○の対応をした。自分は耐震の専門家だ。」と言うのが悲しく滑稽だ。同じ状況は東日本、熊本そして今回も続く・・・・。
こういう時に手柄を争っても仕方がない。産官学でそれぞれ役割が有るはずで、必要な役割を果たせばよい。

ここでのエピソードは沢山あるので、次回以降また話したい。

最後に頼るのは自分しかいない。

※1:現在の一般財団法人国土技術研究センター(設立当初は財団法人国土開発技術研究センター)

インフラメンテナンス 総合アドバイザー

植野芳彦

PROFILE

東洋大学工学部卒。植野インフラマネジメントオフィス代表、一般社団法人国際建造物保全技術協会理事。
植野氏は、橋梁メーカーや建設コンサルタント、国土開発技術研究センターなどを経て「橋の専門家」として知られ、長年にわたって国内外で橋の建設及び維持管理に携わってこられました。現在でも国立研究開発法人 土木研究所 招聘研究員や国土交通省の各専門委員として活躍されています。
2021年4月より当社の技術顧問として、在籍しております。